結論から述べます。
「本尊所住の処は戒壇」となる根拠は、法華経神力品の「所在国土。若有受持。~諸佛於此。而般涅槃。」(開結513~514)に存在します。その箇所を丁寧に一つずつ解説されたのが、日寛上人の依義判文抄であり、『第七に神力品の「爾時仏告上行」等の文』と題して六巻抄の101ページから105ページにわたって御指南下されています。
これらの一語一語を噛み締めるように拝読していけば、日蓮正宗における「戒壇」の考え方が掌にできるはずです。それでは順にお話ししていきます。
妙法蓮華経并開結
所在国土。若有受持。読誦。解説。書写。如説修行。若經巻所住之処。若於園中。若於林中。若於樹下。若於僧坊。若白衣舎。若在殿堂。若山谷曠野。是中皆應。起塔供養。所以者何。當知是処。即是道場。諸佛於此。得阿耨多羅三藐三菩提。諸佛於此。転於法輪。諸佛於此。而般涅槃。
新編 妙法蓮華経并開結 513~514
以上が該当部分の真読です。これを訓読すると以下のようになります。
所在の国土に、若しは經巻所住の処、若しは園中に於ても、若しは林中に於ても、若しは樹下に於ても、若しは僧坊に於ても、若しは白衣の舎にても、若しは殿堂に在っても、若しは山谷曠野にても、是の中に皆、應に塔を起てて供養すべし。所以は何ん。當に知るべし、是の処は即ち是れ道場なり。諸佛此に於て、阿耨多羅三藐三菩提を得、諸佛此に於て、法輪を転じ、諸佛此に於て、般涅槃したもう。
新編 妙法蓮華経并開結 513~514
現代人の我々においては日本語としては理解できるのですが、この中に戒壇の意義が述べられていることまでは到底頭が追い付いていきませんよね…。いやはや難しいものです…。
でもご心配には及びません。日寛上人が唯授一人の血脈を受け継がれたお立場から、大聖人様の御心に叶った会通をされて活字として残されております。それが六巻抄(依義判文抄)です。ですから現代に生きる我々は日寛上人の御指南を丁寧に拝していけば自ずと御本仏の意とされる「戒壇義」に辿り着けるようになっているのです。
六巻抄(依義判文抄)
神力品
第七に神力品の「爾時仏告上行」等の文
神力品に云わく「爾の時に仏、上行等の菩薩大衆に告げたまわく、諸仏の神力は是くの如く無量無辺不可思議なり。若し我、是の神力を以て、無量無辺百千万億阿僧祇劫に於て嘱累の為の故に、此の経の功徳を説かんに、猶尽くすこと能わず。要を以て之れを言わば、如来の一切の所有の法、如来の一切の自在の神力、如来の一切の秘要の蔵、如来の一切の甚深の事、皆此の経に於て宣示顕説す。是の故に汝等如来の滅後に於て、応当に一心に受持・読・誦・解説・書写し、説の如く修行すべし。所在の国土に、若しは受持・読・誦・解説・書写し、説の如く修行すること有らん。若しは経巻所住の処、若しは園中に於ても、若しは林中に於ても、若しは樹下に於ても、若しは僧坊に於ても、若しは白衣の舎、若しは殿堂に在っても、若しは山谷曠野にても、是の中に、皆応に塔を起てて供養すべし。所以は何。当に知るべし、是の処は即ち是れ道場なり。諸仏此に於て阿耨多羅三藐三菩提を得、諸仏此に於て法輪を転じ、諸仏此に於て般涅槃したもう」已上。
今謹んで案じて曰く、「爾時仏告上行」より下は是れ結要付嘱なり。文を四と為す。一に称歎付嘱、二に「以要言之」の下は本尊付嘱、三に「是故汝等」の下は題目勧奨なり。四に「所在国土」の下は戒壇勧奨なり、亦三と為す。一には義の戒壇を示す、二には「是中皆応」の下は正しく事の戒壇を勧む、三には「所以者何」の下は釈なり。(中略)
四に「所在国土」の下は即ち戒壇勧奨なり。文を亦三と為す。初めに義の戒壇を示し、次に「是中」の下は事の戒壇を勧め、三に「所以者何」の下は釈なり。
初めに義の戒壇を示すに亦二と為す。初めに本門の題目修行の処を示し、次に「若経巻」の下は本門の本尊所住の処を明かす。故に知んぬ、本門の題目修行の処、本門の本尊所住の処、並びに義は本門の戒壇に当たるなり。故に宗祖の云わく「霊鷲山とは御本尊並びに南無妙法蓮華経と唱え奉る者の住処を説くなり」云云。又云わく云云。六巻抄101~105
次に「是中皆応」の下は正しく事の戒壇を勧むるなり。三大秘法抄十五三十一に云わく「戒壇とは、王法仏法に冥じ、仏法王法に合して、王臣一同に三秘密の法を持ちて、有徳王・覚徳比丘の其の乃往を末法濁悪の未来に移さん時、勅宣并びに御教書を申し下して、霊山浄土に似たらん最勝の地を尋ねて戒壇を建立すべき者か。時を待つべきのみ。事の戒法と申すは是れなり云云。「霊山浄土に似たらん最勝の地」とは、応に是れ富士山なるべきなり。録外の十六四十一に云わく「日蓮一期の弘法、白蓮阿闍梨日興に之れを付嘱す、本門弘通の大導師たるべきなり。国主此の法を立てらるれば、富士山に本門寺の戒壇を建立せらるべきなり。時を待つべきのみ。事の戒法と謂うは是れなり」云云。応に知るべし、「日蓮一期の弘法」とは、即ち是れ本門の本尊なり。「本門弘通」等とは、所弘は即ち是れ本門の題目なり。戒壇は文の如し。全く神力品の結要付嘱の文に同じ云云。秘すべし秘すべし云云。
以上が依義判文抄の該当部分です。青字で示した部分が法華経(神力品)の戒壇義の部分であり、その解釈を述べられたものがそれ以降の部分です。
緑の字で示した部分が「題目修行の処」ならびに「本尊所住の処」が戒壇にあたる旨を説かれております。いわゆる「義理に於て戒壇といえる」のが「題目修行の処」ならびに「本尊所住の処」であると示され、その上で赤の太字で示した箇所をもって「本来戒壇とは国主が帰依した上で戒壇の大御本尊安置の堂宇を大石寺内に建立し、その本門寺本堂(大石寺本堂)を本門事の戒壇と捉えるべきである。」ことを御指南遊ばされました。
実はこれが日蓮正宗に伝わる不変の戒壇義であろうかと思います。この基本を踏まえた上で御歴代御法主上人の御指南を拝していくならば、全てが辻褄を合わせて会通が可能になってくるものでもあります。
法師品
六巻抄の記述順では前後が逆になってしまいましたが、日寛上人は同じく依義判文抄において法華経の法師品を引かれて上記二つの戒壇の意義を述べるとともに、その二つの戒壇の事と義の立て分けを明らかにされました。
真読
薬王。在在処処。若説。若読。若誦。若書。若經巻所住之処。皆應起七寶塔。
新編 妙法蓮華経并開結 326
訓読
薬王、在在処処に、若しは説き、若しは読み、若しは誦し、若しは書き、若しは經巻所住の処には、皆應に七寶の塔を起てて、
新編 妙法蓮華経并開結 326
六巻抄(依義判文抄)
第二に法師品の「在々処々」等の文
六巻抄85
法師品に云わく「薬王、在々処々に、若しは説き、若しは読み、若しは誦し、若しは書き、若しは経巻所住の処には、皆応に塔を起て」等云云。応に知るべし、「若説、若読」等は本門の題目なり、「若経巻」は即ち本門の本尊なり、「所住之処、皆応起塔」は本門の戒壇なり。中に於て「所住之処」は義の戒壇なり、「皆応起塔」は事の戒壇なり。
この青字で示した部分が三大秘法における「本門の戒壇」と呼ばれるものになるわけです。しかしながら、その「本門の戒壇」には二つの意義があり、赤字で示したように「本尊所住の処」は義理に於て戒壇と言えるのであり、その義理を受けるのは「本尊安置の堂宇」たる戒壇堂であり、日蓮正宗においてはこれを広宣流布後の大石寺(本門寺)の本堂一か所を指しておるのです。そしてその戒壇堂建立を御命令遊ばされたのが三大秘法抄ならびに一期弘法付嘱書に遺された戒壇の文であり、これを指して日蓮正宗では「御遺命の戒壇」と称しているわけでございます。
どうでしたでしょうか?本尊所住の処を戒壇とする理由と、御本尊安置の堂宇をもって事の戒壇とする関係性が少しは見えてきたでしょうか。
正本堂の一件があった当時はこの「本尊所住の処は戒壇」といった観点から多くの御指南が為されました。そして法体に約した「事の戒壇」「義の戒壇」の立て分けを何度も繰り返し御指導されました。それはそれで良かったと思います。しかしながら、あまりにもそれが前面に出過ぎてしまったがゆえに、上記のような法華経や六巻抄に述べられている堂宇としての戒壇に対する認識が法華講員の中から消え失せてしまったのは誠に遺憾に感じるところであります。
そもそも妙信講や顕正会において浅井さんが憂いていたのは当にこの点であり、これが彼らの主張の本質的なところでもあります。先ずはこの部分を我々法華講員が改めて勉強しなおすことが対顕正会の折伏には絶対に必要な条件かと思います。本日はここまで。
前回のYOASOBIさん繋がりで本日はこれ…
アニメではこれでしたね…。ちなみにコミックも全巻所持してます?
おまけでRABのアイドルもどうぞ