三類の強敵

宗祖日蓮大聖人御生誕八百年慶祝記念総登山も終了し、各信徒さん方にも良きにつけ悪しきにつけ現証が出てきていることと思います。

前回の御命題の時もそうでした。頑張ってきた人には相応の果報が出ますし、逆に頑張れなかった人にはそれに応じた結果が出ます。そしてその出方というのはいつも同じです。これが仏法の方程式というものなのでしょうか。私の身の回りも以前と同じような動きが出てまいりました。

私も復習のつもりで10年前に書いたブログ記事を読み返したいと思います。

2013年3月の記事

はじめに

日蓮正宗の寺院では毎月第二日曜日に御講が執り行われます。

そこでは献膳、読経唱題の後に御住職様から法話が行われますが、私の所属する寺院では数年前から開目抄を講義してくださってます。

あの長い開目抄を始めからやっているわけですね…。

何とも気の遠くなる話なんですが、それもようやくゴールが見えてきまして、最近は三類の強敵の部分を勉強いたしました。

実はこの開目抄の御講義は、御隠尊日顕上人猊下が全国の各お寺に御親修に赴かれた折に数年にわたって講義されたものが大日蓮に残っております。(先般出版された観心本尊抄講話も同じように御講義されたものを抜き出して再販されたものです。)

どうしても時間的に限られた御講の席では、御住職様のお話を完全に消化することが出来ないので、私はその古い大日蓮を引っ張り出して復習したりするのですが、この三類の強敵の部分は非常に理解が進んだものでした。

と言いますのも、この信心は“事を事に行ずる”とよく言われますが、事であるところの正法を事実の上に実践することが何よりも大事なわけでございます。

実際に実践すると、大聖人様が御書に残された通りの現証を体験出来るわけですが、それによってより確信が深まるとともに、御法門の理解もまた進むのだということでしょうか。

私も顕正会から抜けて日蓮正宗の信徒になってから丸9年が経ち、10年目へと突入いたしました。

この間私なりに一生懸命頑張ってきたわけですが、それに応じてやはり周囲の環境はめまぐるしく変化し、この三類の強敵の出現もまたあったわけでございます。

「あぁ、彼が俗衆増上慢だったのね…。」

「なるほど…、あの俗衆増上慢を裏で操っていたのが彼ですから、だったら彼は道門増上慢か…。」

「僣聖増上慢はまだ無いなぁ…。けど、この僣聖増上慢の振る舞いって彼に似ているよな…。道門増上慢であっても了見は似たようなもんだろうから、やはり同じようになってくるのかな…。」

なんて周囲の人たちに当てはめて考えられるわけですね。

これが良いのか悪いのかはわかりませんが、実際に身の回りに三類の強敵が現れなければ理解もまた出来ないのだとも思います。

いい例が顕正会だと思います。

顕正会でも三類の強敵のことは教えますが、実際にあれは三類の強敵ではありません。

法に背くようなことをやっているから、あったりまえに批判されているにすぎないのです。

これって三類の強敵の定義には当てはまらんのですよ。

そういったことが猊下様の御講義では理解できます。

そして、その当事者になったとき…、

三類の強敵の真の意味が理解できるのだと私は思います。

俗衆増上慢

 次の「諸の無智の人の、悪口罵詈等し、及び刀杖を加ふる者有らん、我等皆当に思ぶべし」という文は何を示しておるかといいますと、別して三類の強敵を明かすなか、第一の俗衆増上慢を指摘されるのです。つまり、法華経を弘める人に対して起こってくるところの強敵に三類あるうちの第一番目であります。

 これは、在俗の「諸の無智の人」が法華経の行者に対して色々と悪口を言う。それから「罵詈」というのは、両字とも「ののしる」という意味で、法華経を正しく持つことによって、罵り、謗られるということです。

 それはなぜかといいますと、これはあとからも出てきますけれども、法華経をどこまでも正しく説かんがためには、釈尊の教えのなかで、法華経の法を中心として、きちっと教と行と理と人についてけじめをつける必要があるからです。そして、そのけじめをつけようといたしますと、間違った師により誤った教えに執われている人々に対し、「これは違っておりますから謗法ですよ」ということを言わなければなりません。したがって、その正義に基づく指摘に対し、瞋り狂って怨みを結び、敵になる者どもが現れてくるのです。

 今日の創価学会も、正しい日蓮正宗の僧俗に対して敵になっております。あれなども意味としては、法を正しく立てて護っている僧俗に対して、邪悪な心により敵になって現れてきておるということは、三類の強敵の形の一分として現れておることは間違いありません。特に職業幹部以外の一般会員などは、まさに「諸の無智の人」に当たります。なぜ無智かと言いますと、みんな一往、智慧はあるわけで、つまり、毎日の生活で必要な智慧はたいていの人が持っているわけであります。

 けれども、私がいつも申し上げるところの、この「無智」という意味は、自分で根本的な意味での善悪の判断のできない人間を言うのです。そして、誤り狂った池田如き者の意志により、巧みに情報を操作された上で色々と教えられ、それをみんな真実だと考えてしまう者、いわゆる自分で本当の善悪のけじめをつけることのできない人間が「無智」なのです。

 大聖人様の時代が、やはりそうなのです。あのころ、多くの人間が上の者からけしかけられて、日本中の者が「日蓮という坊主は、我等が信ずる阿弥陀仏をけなし、地獄に堕ちると言う、悪い坊主だ」というように思い込んでしまっておったわけです。

 「日蓮はさせる妻子をも帯せず、魚鳥をも服せず、只法華経を弘めんとする失によりて、妻子を帯せずして犯僧の名四海に満ち、螻蟻をも殺さゞれども悪名に弥れり」(平成新編御書二六六ページ)

と御書にあるでしょう。大聖人様は妻子を全くお持ちにならなかったけれども、「犯僧」すなわち、戒律を犯しておるところの僧であるというようなことで悪口を言う。そうすると、大聖人様の真実のお姿を知らない人間は口から口へ宣伝して、みんながそのように思ってしまうわけです。

 そして結局、自分自身では善悪の判断がつかず、人から聞いたことをそのまま、直ちに信じてしまうのです。もっとも、今はそういう在り方が普通であるかのようになっておりますけれども、これがやはり末法濁悪、いわゆる「恐怖」の世の中なのです。つまり、そういう「無智の人」が「悪口罵詈」等をするということです。

 さらに、口で悪口を言うだけでなく、刀の難、杖の難が起こってくるというのが、次の「刀杖を加ふる者有らん」の文です。

 その経文の如く、大聖人様は現実にあらゆる難にお値いになりました。文永元年の十一月に起こった房州小松原の法難においては、地頭である東条左衛門尉景信等、数百人に囲まれて斬りつけられ、弓で射られて、鏡忍房という弟子は即座に斬り殺され、工藤吉隆という御信者も殉死されました。しかしながら、大聖人様だけは不思議にも殺すことができなかったのであります。

 また、文永八年には、佐渡に流罪ということが決まりながらも、その内実、夜の夜中に鎌倉幕府の役所から大聖人様を引き出したわけです。夜の夜中に引き出すということは、普通はありえないことです。しかし、御書を拝すると、真夜中に引き出されたことは明らかであります。そして、当時の刑場であった竜口に引いていって、夜陰に乗じて大聖人様のお頸を切ってしまおうとしたわけです。しかし、その時も不思議なことにお頸を切ることができませんでした。すなわち、江ノ島のほうから大きな光り物が飛んできて、そのまぶしさに太刀取りの目が眩み、倒れ伏したというのですが、それはまさしく刀を抜いて頸を切らんとした時なのです。

 この竜口の法難と小松原の法難が刀の難の代表的な大難と言えますが、杖の難としては、大聖人様が、

 「杖の難には、すでにせうばうにつらをうたれしかども、第五の巻をもてうつ。うつ杖も第五の巻、うたるべしと云ふ経文も五の巻、不思議なる未来記の経文なり」(同一三六○ページ)

と仰せのように、竜口法難に先立って松葉谷の草庵に押し寄せた数百人の兵士と共にその場に来た少輔房によって、勧持品が含まれている法華経第五の巻をもって三度、頭を打ちさいなまれたことが、その代表的な難と言えましょう。

 そのように大聖人様は、刀の難、杖の難、共に受けられておりますが、そういう刀杖の難が起こってきても、経文の如く、「我等皆当に忍ぶべし」と仰せであります。

(大日連 平成8年7月号 28~32ページ)

道門増上慢

 次の「悪世の中の比丘は、邪智にして心諂曲に、未だ得ざるを為れ得たりと謂ひ、我慢の心充満せん」との文は、三類の強敵の第二・道門増上慢を示されるのでありまして、これは「比丘」すなわち、僧だと言うのです。

 これは「邪智」の者であるというのですが、この邪智とは、正しい智慧ではなく、邪まな智慧をもって色々な策謀を行うということです。ですから、やはりこれも第一の俗衆増上慢と同様に、仏法において間違った考えを持ち、その指導的な立場の上から色々と正しい法を説く人に対して邪念を生じ、瞋りを生じ、その結果、この者を虐げ、迫害せんとして様々な策謀を凝らすというのであります。

 それから「心諂曲に」というのは、へつらい、おもねることです。これは、皆さん方にもそういう諂曲の命があります。つまり、強い者とか利害関係を握っている者に対してはペコペコして、たとえそれが間違っていると思っていても、「はい、さようでございます」と答えるような、そういう卑屈で卑怯な考えがある。そのかわり今度は、弱い者と見たならば、もう徹底していじめる。つまり、弱きに対しては強く、強い者に対しては諂うわけであります。

 これもまた、創価学会の職業幹部に当てはまります。ここで示されている第二・道門増上慢は僧侶に関する内容ですが、創価学会の職業幹部もまた、宗教の意味において集めたお金のなかから月給をもらって生活をしているわけですから、これはもう疑いなく、今日的な意味における僧と言えます

 そういう人間が、正しい法を持つ者に対してあらゆる策謀を凝らして迫害し、それでいて、池田大作みたいな人間に対しては服従するのです。池田大作というのは魔の棟梁ですから、大作のためを思って一生懸命にやるような人間は、悪の同気、相通じて、ちゃんと判るのです。反面、そうでない者は徹底していじめて、ついには首を切ってしまうらしいのです。

 池田大作は大作で、自分に忠実な者だけをかわいがるわけであり、職業幹部は幹部で、かわいがってもらいたいために大作に諂いますから、大作も幹部も共に、「心諂曲」の人間に当たる次第であります。

 さらに、「未だ得ざるを為れ得たりと謂ひ」ということも当たっております。とにかく、創価学会の職業幹部も含めて、邪宗の僧侶のすべてに言えることは、真実の法、すなわち、下種三宝に帰依して信心しなければ正しい悟りは得られないのです。それを「得たり」と勝手に思い込み、それによって「我慢の心」が充満しておるというのが、まさに道門増上慢の姿であると言えるのであります。

(大日蓮 平成8年 7月号 32~34ページ)

僣聖増上慢

 その次の「或は阿練若に」からは、第三・僣聖増上慢に関する経文について、五行の文が引かれてあります。

(中略)

 しかし、「空閑」すなわち、閑かな所に在って、「自ら真の道を行ずと謂ひて、人間を軽賤する」こと、つまり、自分こそ真実の道を行じておるという慢心を抱き、しかも、一般の人間を心のなかで非常に軽んじ、賤しく思う者は、まことの聖者ではありません。これが僣聖増上慢と言われるところの増上慢の者達であると示されるのであります。

 この増上慢の人間は、「利養に貧著するが故に、白衣の与に法を説いて、世に恭敬せらるゝことを為ること六通の羅漢の如く」である、と言われます。この「利養に貪著する」ということは、自己の利益のみを計り、あらゆる意味での生活の資具になるような養いに執着することで、僧侶として最も悪い考え方の一つであります。つまり、衣に貪り、食に貪り、住居に貪り、あるいは財産に貪って、その貪りを充足させるために法を説くというのです。

(中略)

ところが、「是の人悪心を懐き」と説かれるように、六通の羅漢の如く見える人が、実は悪心を持っておるというのです。ということは、本当の羅漢ではありません。煩悩を殺した殺賊ならば、あるいは学ぶことの無くなった無学ならば、もう悪心は全くないはずなのです。けれども、「阿練若に、納衣にして空閑に在って」という意味で、形だけは閑かな所で行い澄ましており、しかも偉そうに法を説きますから、多くの人が「あの人は本当に偉い方だ」と思うのです。そして色々と御供養をすると、その御供養を自分の懐に入れては財欲を充たしているというのです。

(中略)

 それはともかく、僣聖増上慢のような人間は、平気で御供養をたくさん集めて利養に貪著をする。それが説法をする目的なのです。つまり、簡単に言えば貪りであります。

 それから、ここに言う「悪心」として、瞋りの心があります。自分の気にくわない人間に対しては非常に怒るわけで、これらのすべてが、ちょうど池田大作みたいなものです。

私は直接に見たことはありませんが、聞くところによれば、あの人間の下の者への対し方は非常にひどいらしいですね。

 さらに、愚癡の心があります。この愚かということも、偉そうなことを言う人間ほど、愚癡な場合が多いということも考えなければなりません。そういうことが「悪心」であります

 それから、次に「世俗の事を念ひ」とありますが、これがまた、だれかさんとそっくりではありませんか。例えば、有り余る財力から、ほんのわずか出して本を寄付し、その国々から勲章をもらって誇っているのも、俗の最たるものに当たりましょう。そのほか、一々挙げなくとも、いっぱいあります。なにしろ「名誉会長」というぐらいですから、名誉が中心になっているのでしょうが、名誉それ自体が俗っぽいことなのです。

 それはともかく、常に名誉だとか、多くの人間から「立派な人だ」と思ってもらえるようなことを考えるなど、俗っぽいことだけを考えておるのが僣聖増上慢であると指摘されるのです。まさに経文のとおりであります。

 そして、「名を阿練若に仮りて、好んで我等が過を出ださん」とする、すなわち、私は阿練若に住しているのだというような形式だけを取りながら、好んで「我等が過」を探し出すというのです。ここに示される「我等が」というのは、八十万億那由佗の菩薩が言っておる言葉ですから、法華経を末法において弘めんとする方について、その過を深し出すということであります。

 これもどうですか。創価学会の場合は、何もないことをでっち上げて、やれ、シアトルにおいて変なことがあったとか、偽造写真を証拠として私が芸者と遊んでいるとか、実際にはないことを、本当にあったことのようにでっち上げてくるのです。それがここに示される「好んで我等が過を出ださん」ということでありまして、敢えてありもせぬ過を探し出すわけであります

 だから、我々にはしょっちゅう、尾行が付いています。皆さん方のなかでも、尾行が付いている人はかなり偉い人であって、三類の強敵に少しぐらいはからまれていることになります。私もしょっちゅう、尾行されている意味がありますし、ここに来ている宗務院の部長なども同様であります。

 もちろん、いくら尾行を付けて監視しようが、彼等が望むようなことをするわけはないのだけれども、どうにかして、その過を探し出そうとするわけです。そして、ちょっと食事のために普通のお店に入ったならば大変です。「あんな高級なお店に入って食事をし、最高のぜいたくをしている」などとはやし立て、機関紙などに書き立てていくわけですが、これこそ、ここに示される「過を出ださん」という姿であり、かの謗法団体のやり口と実にそっくりであります。

(大日連 平成8年7月号 32~40ページ)

悪鬼入其身

 次の「濁劫悪世の中には、多く諸の恐怖有らん。悪鬼其の身に入って、我を罵詈毀辱せん」という文からは、三類の強敵が法華経の修行者を誹謗するところの理由が挙げられます。そして、その大きな理由は「悪鬼入其身」ということで、「悪鬼」には第六天の魔王、乃至その眷属としての魔鬼が存在するわけですが、悪鬼が入ると人間が人間でなくなります

 皆さん方は狐が入った人間を見たことがありますか。狐が入った人間を私は見たことがありますが、ピョーン、ピョーンと三畳くらい跳びはねるのです。もちろん、その人でも普通の状態ではそういうことができないのでありまして、まさしく狐が跳びはねるのです。それから、蛇が憑いている人は、その業念が高まると蛇のように身体をくねらせて這い回るのですが、その光景は本当に不気味であります。

 しかし、これなどは畜生の狐や蛇がその身体の中に入るということですが、悪鬼が入るともう一つ深く、第六天の魔王その他の眷属が身に入ってきますから、外見上は普通の人間と変わりがないのです。ただ、考えること、なすことが、正しいことを行わんとする人に対して敵となって、様々な悪事を行い、迫害を加えるというのであります。

 そのように悪鬼が身に入った人間が、「我」すなわち、法華経の行者を「罵詈」し「毀辱」するのである。この毀辱の「毀」は「そしる」ことであり、「辱」は「はずかしめる」ということです。

 私もいい加減、はずかしめられているでしょう。しかし、すべて本当のことではありませんから、私はいささかも痛痒を感ずることはありませんが、ともかく、色々なことをでっち上げられて、はずかしめられてはおるわけです。

 ほかの僧侶も、みんなそうであります。特に学会の誤りをはっきりと破折している僧侶ほど、彼等にとっては癪にさわるらしいのです。ですから、有ること無いことではなく、本当に無いこと、無いことを言って、はずかしめておるのであります。

(中略)

 この「僣」という字は「ずるい」とか「わるがしこい」という意味です。つまり、賢いのですけれども、悪く賢いということで、要するにずるいのであります。そして、陰険でもあります。表面は人心収攬に長けているので善さそうな人にも見えて、実は非常に肚黒く、自分のためにならない人間はどのようになっても構わないというような、無慈悲で険しい心を持っている、まさに池田のような者が「僣」という字義に当たるのです。

 だから、「僣聖」ということは、聖のような格好をしていて、世間の人々からは偉く尊い人だと思われていながら、非常にずるく、悪賢い、聖者の仮面をかぶった者という意味であります。

 そして、「此の三の中」すなわち、最初の俗衆、第二の道門、第三の僣聖という三つの増上慢のなかで、「初めは忍ぶべし」と言われます。この「初め」とは俗衆増上慢を指しますが、いわゆる在家の人々の悪口です。

 今、創価学会の末端の人達が一つ覚えで、「日萌はシアトルで売春婦と変なことをしたんですよ、本当なんですよ」というようなことを一生懸命に言っておるのです。そのようなことは全くありもしないのに、それを信じて誹謗し、ひたすら罪障を積み重ねていくことは、本当にかわいそうな者どもであります。しかし、それは無智の故ですから、重い謗法ではないとも言えます。つまり、職業幹部等の有髪の悪僧に教唆・煽動されて、ただ、身体や口には謗るけれども、結局、謗法の心は浅いのです。ですから、そういう者による迫害は、まだ忍び易いというのであります。

 そして、「次は前に過ぎたり」とあるなかの「次」というのは第二の道門増上慢を消し、先程も言ったところの創価学会の職業幹部などはこれに当たります。これらの者どもは邪智がありますから、変な理屈を色々言うのです。しかも、それらの者は教団の勢力の消長と密接な関係があります。つまり、創価学会から月給をもらっていますから、そこに生活の問題が絡んでくる。したがって、創価学会の勢力を維持し、拡大させることが、自分達の生活を安定させることになるわけです。そのために、自らの教団の繁栄を阻害する者に対する迫害等には真剣さがあり、また、執拗性も増してきます。よって、前の俗衆増上慢による迫害よりも忍び難いという意味があるのです。

 このことは、創価学会の職業幹部のみではなく、世間一般の邪宗の僧侶についても通じておると言えます。

 さて、次の「第三最も甚だし」というのは僣聖増上慢を指しておりますが、これについて何が甚だしいのかと言えば、謗法の義において非常に甚だしいものがあるということです。

 その理由として「後々の者は転識り難きを以ての故に」ということを述べておりますが、この「後々の者」というのは、第一番目は俗衆、次は道門、その次は僣聖と来るわけですが、道門は俗衆の後であり、僣聖は俗衆の後の後ということで、第三番目を「後々」と表現しているのであります。

 そして、「転識り難きを以ての故に」というのは、なかなか知ることができない、ということです。それはなぜならば、僣聖増上慢の悪は隠れていて、ちょっと上っ面を見ただけでは判らないということなのです。

(中略)

 けれども、この僣聖増上慢は、池田大作も含めて、あるいは大聖人様の御在世で言えば極楽寺良観とか京都の聖一というような人に当たりますが、すべて聖者ぶっていて、外見は偉いような格好をしておるのです。

 それから、他に悪を行わしめて、けっして自分自らは行わないという特質があります。他に命令してやらせるために、その人本人がやっているようには見えないのです。その上、策謀に長けており、悪賢い意味がある。さらに、多くの者を動かすところの力を持っておるというようなことから、はっきりとした悪い内容が表面に出てこないという意味があります。

 そこで、僣聖増上慢の者の行為は、なかなか表面に出ないためにその内容を知り難く、したがって、それは最も甚だしいものであって、非常に忍び難いものであるということを、妙楽大師が述べているのであります。

(中略)

 法華経の修行者はその三業による悪を忍ぶのであるということですが、それを起こすのは「外悪の人」なのです。つまり、「外悪」の「外」とは仏教の教団以外の、在家の人ということで、「外悪」とは在家の悪人という意味です。したがって、これは俗衆増上慢による迫害等を指摘されるのであります。

 そして、「次に悪世の下の一偈は、是上慢出家の人なり」と示しております。この「上慢」というのは増上慢という意味でありまして、方便品の、増上慢を起こして法華経の説法の座から立ち去った五千人のことが示される文に、

  「此の輩は罪根深重に、及び増上慢にして、未だ得ざるを得たりと謂い、未だ証せざるを証せりと謂えり」(開結一六五ページ)

と示されておりますが、そのように仏道の上の慢心による間違った考えを持った出家の人達ということであります。

 さらに、「第三に或有阿練若より下の三偈は、即ち是出家の処に一切の悪人を摂す」と示されますが、この「出家」は第三番目たる出家、すなわち僣聖増上慢ですから、指導者という意味であります。そして、「一切の悪人を摂す」ということは、僣聖増上慢が諸悪の根源であるということです。したがって、その人の存在、その人の教唆、その人の煽動によって多くの人が悪いことを行い、悪道のなかに入ってしまうが、それら諸悪の根源としてだれがいるかといえば、僣聖増上慢が糸を引いて操っておるということなのです。

(大日連 平成8年7月号 41~53ページ)

まとめ

長々と拝読して来ましたが、まさにこれが三類の強敵の真の姿なんですね。

未だ体験していない方においては何を言っているのかさっぱりわからん…、となることでしょうが、実際に信心が深まっていけば自然とこのような輩が周囲に出現することでありましょう。

その時は、

「あぁ、この人が俗衆増上慢なんだな…、彼は道門増上慢か…。その裏に控えているあの方が僣聖増上慢ですね…。」

と賢く見抜いて、決して彼らの挑発に乗ることなく、信心を貫いて頂ければと願うものです。

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