鬱君へのお返事

とりあえず鬱さんからお返事が来たようであるが全くこちらの質問の答えになっていない。私は当初から

「次の『建立』という意は、三大秘法総在の本尊である本門戒壇の大御本尊安置の堂宇を、広布の事相が顕現するとき、改めて建立することである。」(三大秘法義561頁)

との日顯上人の御指南と「御影堂が御遺命の戒壇である」との彼の主張との整合性を論証しろと言っているのだ。

彼の主張を取るならば日顯上人の御指南は全くのデタラメと成り下がる。そもそも在家の一信徒が先代御法主上人猊下の甚深の御指南と正反対の主張をして許されるわけなどない。ゆえに日顯上人の御指南と彼の主張の辻褄が合うように説明せよと申しているのである。それが出来ぬのならばユウキを出して自らの過ちを謝罪すべきであろう。

鬱君のお返事

読ませていただきました。 

そもそも質問に関して何の回答もなされていないのはトチロ〜さんの方です。

そもそも御影堂には『本堂』ではなく 『本門戒壇本堂』とあります。

このことをトチロ〜さんに問うたのですが何の返答も得られていません。

とりあえず返事なのでトチロ〜さんのブログを読みながら返事を書きます。

日顕上人の三大秘法義を引用なされていますが、百六箇抄は日蓮大聖人から日興上人へ相伝されたものです。

『身延』におられた日蓮大聖人が『富士』に改めて本堂を建立せよと 日興上人に相伝したものです。

日興上人は身延から富士に移り改めて御影堂を建立していますよ。 この事実は無視ですか?

また日興上人は『本門寺の朽木書きの御堂をば大石に立て申し随って身延澤にて立て申したりし御仏をも入れ申す』(富士宗学要集五巻頁149)と言われています。日興上人が残した本門寺の朽木書きなのですから本門戒壇の手本は御影堂であります。

日興上人は各種法要を全て本堂である御影堂にて行われていることが日興上人の書簡からも明らかです。

日興上人は日興跡条々事に『大石寺は御堂と云ひ墓所と云ひ日目これを管領し、修理を加え勤行を致して広宣流布を待つべきなり。』と言われています。 

そして御歴代上人はその相伝を代々護り 御影堂を改修し続けています。

貴方の意見を取り 建物を建て直すのならば歴代上人は将来壊す予定の建物を直し続けてることになります。

そんなことがありえますか?と、私は聞いているのです。

最後に私がXでしたトチロ〜さんへの質問をまとめておきます。

回答お願いします。

①御影堂の正式名称は本門戒壇本堂ですがそれを後々御法主上人は否定されたか?本門戒壇本堂ではないと明確に言われた文面は残っていますか?

②日顕上人は三大秘法義に『爾前権経や迹門のように別に戒壇堂を造るのではない』と言われておりますがトチロ〜さんの主張は別に戒壇堂を造るように思われますが如何ですか?

何だか同じところをグルグルと困ったものだ…。まるで片隅さんとのやり取りを連想してしまう。とりあえず彼の質問にはお答えしておこう。

鬱君への返答

本門戒壇本堂について

たしかに日精上人建立時の棟札には「本門戒壇本堂」との記載がある。これをもって鬱君は現在の御影堂が御遺命の戒壇を広宣流布以前に前もって建てたものだと捉えているようだが、当時は御影堂に戒壇の大御本尊が御安置されていたのだから「本尊所住の処、義は戒壇にあたる。」との神力品の教え通りに「本門戒壇」の語があって当然なのである。また鬱君は中道さんにブロックされてしまったようだから確認はできないかもしれないが、「現在つまり広宣流布前の【大本門寺】になる前の【大石寺】の本堂が何ですか?と問われたら間違いなく御影堂で問題はないと考えます。」との中道さんの言葉はお山の信徒であれば当然の認識であり私もそう捉えている。今さら末寺の鬱君に説教されるまでもない。当に釈迦に説法であろう。

また同じく中道さんの「しかし、それと広宣流布後の戒壇は別だと我々は認識しております。 御歴代の御指南も異口同音に将来の大本門寺の戒壇は否定していません」が重要なのである。私が再三挙げている「次の『建立』という意は、三大秘法総在の本尊である本門戒壇の大御本尊安置の堂宇を、広布の事相が顕現するとき、改めて建立することである。」(三大秘法義561頁)との日顯上人のお言葉は当にこのことを仰せになっているのである。日寛上人も依義判文抄において

 次に「是中皆応」の下は正しく事の戒壇を勧むるなり。三大秘法抄十五三十一に云わく「戒壇とは、王法仏法に冥じ、仏法王法に合して、王臣一同に三秘密の法を持ちて、有徳王・覚徳比丘の其の乃往を末法濁悪の未来に移さん時、勅宣并びに御教書を申し下して、霊山浄土に似たらん最勝の地を尋ねて戒壇を建立すべき者か。時を待つべきのみ。事の戒法と申すは是れなり」云云。「霊山浄土に似たらん最勝の地」とは、応に是れ富士山なるべきなり。録外の十六四十一に云わく「日蓮一期の弘法、白蓮阿闍梨日興に之れを付嘱す、本門弘通の大導師たるべきなり。国主此の法を立てらるれば、富士山に本門寺の戒壇を建立せらるべきなり。時を待つべきのみ。事の戒法と謂うは是れなり」云云。

 

六巻抄 104

と申され、法華取要抄文段ならびに報恩抄文段においては

 次に正しく事の戒壇とは、秘法抄十五三十一に云わく「王法仏法に冥じ、仏法王法に合して、王臣一同に三の秘法を持ちて、有徳王・覚徳比丘の其の乃往を末法濁世の未来に移さん時、勅宣並びに御教書を申し下して、霊山浄土に似たらん最勝の地を尋ねて戒壇を建立すべき者か。時を待つべきのみ。事の戒法と申すは是なり」〔一五九五〕等云云。

法華取要抄 文段 543

一、二つには本門の戒壇文。〔一〇三六〕

本門の戒壇に事有り、理有り。理は謂わく、道理なり。亦義の戒壇と名づけん。謂わく、戒壇の本尊を書写して之を掛け奉る処の山々寺々家々は皆是れ道理の戒壇なり。「当に知るべし、是の処は即ち是れ道場」等云云。

次に事の戒壇とは即ち富士山天生原に戒壇堂を建立するなり。外の十六四十一に御相承を引いて云わく「日蓮一期の弘法、白蓮阿閣梨日興に之を付嘱す、本門弘通の大導師たるべきなり。国主此の法を立てらるれば、富士山に本門寺の戒壇を建立せらるべきなり。時を待つべきのみ。事の戒法と云ふは是なり」〔一六七五〕云云。

重々の道理あり。予が文底秘沈抄の如し。

報恩抄 文段 469

と御指南遊ばされ、将来の国主帰依を待って大本門寺の戒壇を建立せよと明確に指示されているのである。ここでの戒壇堂ならびに本門事の戒壇とはすなわち大石寺本堂になるが、説明するまでも無く歴代の御法主上人は広宣流布を待って堂宇を建立せよと言っているのである。

蛇足ではあるが、鬱君の主張するように御影堂が御遺命の戒壇であるとするならば、以下の日顯上人のお言葉にも反するのである。

マタ御遺命ノ広布ノ戒壇ヲ建物ノミ前以テ建立スルナドノ論モ、徒ラニ功名ニ走ル我見・邪見ニシテ、カツ時ヲ取リ違エタル迷論ニ過ギザリシナリ

百六箇種脱對見拝述記 319

さて鬱君はどのようにしてこの歴代御法主上人のお言葉と御自身の主張の辻褄を合わせるのだろうか、お手並み拝見と洒落込もう。

三大秘法義に関して

次の質問の三大秘法義の御指南に関してだが、これは諸宗における本堂とは別に戒壇堂を設けるのではなく、日蓮正宗においては本尊所住の処が戒壇となるゆえに「御遺命の戒壇=大本門寺の本堂」となることを仰せなのであって、現在の御影堂が広布以前は本堂として使用されているからそのまま御遺命の戒壇となるということではない。これは鬱君の引用した後に以下の様に日顯上人は仰せになっている。

すなわち、広宣流布以前には『三大秘法抄』に仰せの事相の戒壇はいまだ建立されないが、本門戒壇の大御本尊安置の所は、順縁不退に住する我ら衆生の罪障消滅・即身成仏がかなう事の戒壇である、とのご教示である。

三大秘法義 565~566

上記の中道さんの発言も私が前項であげた歴代御法主上人の御指南も、全てが広宣流布後に改めて戒壇の大御本尊安置の堂宇を建立し、それが大本門寺の本堂となることで一貫しておる。以上をもって私の回答はさせて頂いた。

鬱君への質問

くどいようだが未だ明確なお返事を頂けていないので再度質問する。

なお、もう一個おまけで質問してみようかね。

1「次の『建立』という意は、三大秘法総在の本尊である本門戒壇の大御本尊安置の堂宇を、広布の事相が顕現するとき、改めて建立することである。」(三大秘法義561頁)との日顯上人の御指南と「御影堂が御遺命の戒壇である」との君の主張との整合性を論証せよ。

2 日主上人の時代には「御影堂」と「本堂」が別個に建てられておりましたが、鬱君はこれのどちらを大石寺の本堂として理解されていますか?(笑)

今日はこのくらいにしておこう。本日の一曲は

FUNKY MONKEY BABYS 「ちっぽけな勇気」

別にこれも深い意味は無いからね?

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