御影堂戒壇説に関して

三大秘法鈔ならびに一期弘法付嘱書に説かれるところの御遺命の戒壇は現存する御影堂のことだと主張される方々がおられる。一人二人がそのように考えているのならば放置していても構わないのだろうが、これに影響を受ける法華講員が相当数発生してきたようなので改めてこの問題に触れてみたいと思う。

経緯

この問題提起はX(旧Twitter)にてある方から投げかけられた。

これに対して私は以下の様に回答した。

ご質問の「御遺命の戒壇が御影堂」との主張は間違いです。以下にその理由を述べます

さてご質問の件ですが、御遺命の戒壇は広宣流布の暁に戒壇の大御本尊安置の堂宇を改めて建立することであり、既に建立されている御影堂がそれにあたることはありません
また三学の観点から戒壇の大御本尊所住の処が戒壇にあたるゆえ御遺命の戒壇は本尊所住の場所を指し示すのであって、本尊安置の堂宇を指すのでは無いという論を述べる者も散見されますがそれもまた誤りです。


「次の『建立』という意は、三大秘法総在の本尊である本門戒壇の大御本尊安置の堂宇を、広布の事相が顕現するとき、改めて建立することである。」(三大秘法義561頁)と、このように日顯上人は御指南されておりますし、

宗内の御僧侶方においても 「事中の事の戒壇とは何かといえば、『寿量演説抄』に「未だ時至らざる故に事の戒壇之無しと雖も、既に本門の戒壇の御本尊在す上は其の住処は即ち戒壇なり」(歴全4-145㌻)とあり、法体に約せば本門戒壇の本尊所住のところが事の戒壇であり、また「正しく事の戒壇とは一閻浮提の人の懺悔滅罪の処なり、但然るのみに非ず、梵天・帝釈も来下して踏みたもうべき戒壇なり。秘法鈔に曰く『王臣一同に三秘密の法を持たん時、勅宣并びに御教書を申し下して、霊山浄土に似たらん最勝の地を尋ねて戒壇を建立すべき者か、時を待つべきのみ、事の戒法と申すは是れなり等云云』」(六巻抄61㌻)とあり、事相に約せば広宣流布が実現した時に初めて建立される戒壇である。」(日蓮正宗教学研鑽所紀要 第2号 14~15頁 高橋粛道師)

とのように解説されております。

つまり日蓮正宗の御僧侶方にはこのように戒壇論は習い伝えられているのであり、一在家が想像を逞しくして色々と述べるのは構いませんが、それを正宗の教義であるかのような押し通し方をするのは感心しません。以上を以て私の回答とさせて頂きます。

これを受けて御影堂戒壇論者の方から反論が来た。

読ませて頂きましたが、そもそも前提がおかしいです。

この方は 「さてご質問の件ですが、御遺命の戒壇は広宣流布の暁に戒壇の大御本尊安置の堂宇を改めて建立することであり、既に建立されている御影堂がそれにあたることはありません。」と言われていますが改めて建てるなんてことは日蓮大聖人も日興上人も言われていません。言われているというなら 日蓮大聖人、日興上人の文書から証明してください。

日蓮大聖人は百六箇抄に「三箇の秘法建立の勝地は富士山本門寺本堂なり」と仰せであり日興上人は大石記に「本門寺の朽木書の御堂をば大石に立て申し身延澤に立て申したり御佛をも入れ申す」とあります。 日蓮大聖人が日興上人に託し建立されたのが大石寺本門戒壇本堂である御影堂です。 身延澤に立て申したり御佛は言わずもがなです。さらにら日興上人が各種法要をしていたのも御影堂であり それは日興上人の御消息に認められています。 もしも、この方の言っていることを取るのなら 日興上人は日蓮大聖人の御遺命を無視して 本門戒壇にはならない御堂を建てたということになります。謗法も度が過ぎてますよ。

そもそも御影堂が再建されたときも 「本門戒壇本堂」とあります。この「本門戒壇本堂」を歴代上人の誰か一人でも否定しましたか? 1人でも文献を出して証明してください。日顕上人も日如上人も御影堂は「本門戒壇本堂」ではないとは言われていません。

日顕上人は三大秘法義において「本門の戒壇は爾前権経や迹門の戒壇のように別に戒壇堂を造るのではない。本尊の住処が直ちに戒壇である故に「本堂」と示されたのである。広布の暁に本門戒壇之大御本尊まします本堂がすなわち事の戒壇の意である」と言われています。 改めて堂宇を建立することは爾前権経や迹門の戒壇と同じように戒壇堂を造るのなので 日蓮大聖人の本意でありません。

だいたい御遺命の戒壇を建立することを御遺命の戒壇堂を建立することと混同してるように見受けられます。

日蓮大聖人も日興上人も本堂が戒壇であり 大石寺の本門戒壇本堂に本門戒壇之大御本尊をご安置すればそれ即ち本門戒壇の建立です。

どうして御影堂は普段御本尊様のお扉が閉まってるのか知ってもいないのですね。広宣流布ではないから御扉を閉めているのです。 日興上人御在世当時は本門戒壇之大御本尊様がご安置されていたからその化儀として閉めているんです。 もう少し日蓮正宗の歴史や建物を見学して勉強することをオススメします。

彼の問題点は青字で示したが、それに関しては後程述べる。これに対して私は以下の様に回答した。

どこかで見たような論法ですね。この方がK氏を誑かしたのか、それともこの方がK氏の影響を受けたのかは存じ上げませんが、以下のブログ記事で回答は十分でしょう。

前回の記事を今朝がたにアップしたら早速K氏から「脊髄反射」の反論tweetが上がりました。 百六箇抄...

この中の

「然ルニ今ハ「三箇ノ秘法建立」トノタマウトコロニ、特別ノ深意アリ。即チ三大秘法総在ノ本尊タル本門戒壇ノ本尊安置ノ堂宇ヲ、国主ノ意ニ基ヅキ、改メテ建立シ給ウヲ「三箇ノ秘法建立」ト仰セラルルナリ。」 百六箇種脱對見拝述記323頁

や、三大秘法義における以下の御指南を拝せば既存の御影堂が御遺命の戒壇でないことはハッキリと認識できます。

「次に、その註の文は、さらに明確に事の戒壇について示されている。すなわち、 「三箇の秘法建立の勝地は富士山本門寺の本堂なり」(同㌻) の文である。「三箇の秘法」とは、大聖人一期御化導において明らかな、本尊・戒壇・題目であることは言うまでもない。次の「建立」という意は、三大秘法総在の本尊である本門戒壇の大御本尊安置の堂宇を、広布の事相が顕現する時、改めて建立することである。」 三大秘法義561頁

貴方は独学ではなく、所属寺院の御住職様から素直に指導を仰ぐことが大事かと思います。なお、法体に約しての立て分けと事相に約しての立て分けを御理解出来て無いと見受けられます。以下の記事も熟読するように重ねてお申し付け下さいませ。

結論から述べます。 「本尊所住の処は戒壇」となる根拠は、法華経神力品の「所在国土。若有受持。~諸佛於此。而般涅槃。」...

と、このように問題提起者に返答したのだが余程癇に障ったのか、問題提起者の橋渡しを待つまでも無く直接私に喧嘩を売ってきたのである。

(上記内容に不適切な表現がありましたので、一部訂正致しました。不快な思いをされた方にはお詫び申し上げます。)

で、その彼からの投げかけに数回返答はしたのだが、X(旧Twitter)の限られた文字数では満足のいくやりとりは難しいのでこちらのブログにて彼への回答をしたいと思う。

彼の問題点

上記の彼の返信を見ても分かるように問題点は複数存在する。

1 「戒壇建立」を戒壇の大御本尊安置の堂宇を建立することではないと誤認していること。

2 「本堂」との語があるがゆえに現存の御影堂が広布後の本門寺本堂になると認識していること。

3 事相に約しての戒壇の立て分けと法体に約しての立て分けを全く理解できていないこと。

ザッとこんなところであろうか…。

それでは一つずつ説明していこう。

ただ、既にかなり長くなっているので、本日は1番目に関してだけ言及したい。

御遺命の戒壇建立は堂宇の建立である

彼の返信に百六箇抄の「三箇の秘法建立の勝地は富士山本門寺の本堂なり」(新編1699)が引用されているが、その解釈として日顯上人が御指南下さったのが以下の文である

「次の『建立』という意は、三大秘法総在の本尊である本門戒壇の大御本尊安置の堂宇を、広布の事相が顕現するとき、改めて建立することである。」(三大秘法義561頁)

日顯上人は広布後に改めて戒壇の大御本尊安置の堂宇を建立することがこの御金言の意とするところであるとハッキリと仰せなのである。この点を当初から彼に投げかけているのだがノラリクラリと逃げ回って明確な返答をしない。先ずはこの日顯上人のお言葉と「御影堂が御遺命の戒壇」だという自身の主張との整合性を論証すべきである。

日達上人お言葉

以前に片隅氏と同様のやり取りをしたとき、日達上人の御指南をもって反論してきた。しかしながらそれは当時の特殊な状況下におけるお言葉であり現在ではそれは通用しない。前もって以下にこちらの主張を貼り付けておくので片隅氏と同じような過ちを犯さぬよう注意されたい。本日はここまで。

Twitterにおける片隅氏との討論であるが、彼の主張の根拠とは日達上人の昭和49年6月18日の御指南である「戒壇についての補足」...

本日の一曲はこちら…

この曲の題名って…?別に深い意味はございません。(笑)

当時は住友の井桁のバッチを胸につけてこんなノリでやっていたんだよな…、なんて感慨にふけったりして…。「バブル世代をなめんなよ、小僧!」とだけ言っておきます。

【CM 1989-91】三共 Regain 24時間戦えますか 30秒×7

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