日達上人「戒壇についての補足」に関して

Twitterにおける片隅氏との討論であるが、彼の主張の根拠とは日達上人の昭和49年6月18日の御指南である「戒壇についての補足」ならびに日蓮正宗略解の戒壇に関する記述である。

本日は日達上人の上記御指南に関して私の見解を述べさせていただく。その前にもう一度彼の主張を再確認してみたい。彼は顕正会の習気が抜けないのか、こちらの指摘が痛いところを突いているとすぐに論点を逸らしてマウントを取りたがる。ゆえに最初の彼の主張をくどいようだが再掲する。

これが彼の当初の主張である。西山君と櫻川さんが御遺命の戒壇の建立条件である「国家意志の表明」に関して対話しているところに首を突っ込んできて上記の様に発言したのである。

つまり片隅氏の言い分は「御遺命の戒壇は建造物ではない。事の戒法の意味を理解すればそれが分かるだろう。」ということである。

ゆえに私は日顯上人の御指南をもって御遺命の戒壇は建造物であることと、王仏冥合の条件の上に本門戒壇の建立を示されたのが事の戒法の成就であることを、日顯上人の御指南を引用して証明したのである。

しかしながら慢心した彼の耳には全くこちらの諫めは入っていかなかったようである。そして彼は冒頭の日達上人昭和49年6月18日の御指南「戒壇についての補足」ならびに日蓮正宗略解の戒壇に関する記述をもって更なる言い訳をしてきたのである。よってそれらの彼の根拠が的外れの代物でしかないことを述べていきたいと思う。なお、長くなるので今回は日達上人の御指南に絞り、日蓮正宗略解に関しては後日述べさせていただく。

先ずは慢心を反省せよ

ここまでの彼とのやり取りを見て頂ければ真面目に信仰に取り組んでおられる法華講員の皆様方にはご理解いただけると思うが、彼は御自身の力量というものを客観的に把握されていないようにしか思えない。これが顕正会員相手であれば情け容赦なく論破して終了となるわけだが、曲がりなりにも法華講員であるがゆえ、今後の彼の信仰に支障をきたしては気の毒に思って「御住職にはご報告されましたか?」とチャンスを与えてあげたのだが、それもまた慢心が邪魔をしてみすみすそのチャンスを自ら捨ててしまったようである。

そもそも御住職に包み隠さずに報告をして、このTwitterにおける一連の投稿を見て頂ければ、普通の御住職様であれば即ストップの御命令が下ることであろう。昭和49年当時の特殊な環境下での御指南と、かつ入門書とも呼べる略解を唯一の根拠として自論を展開しているのである。何も資料を持たない顕正会相手ならそれも有りかとは思うが、こちらは20年もの歳月を対顕正会に費やしてそれ相応の資料も手元に持ち、散々思索を重ねてきたわけである。その上で自身の御住職には全てご報告の上で、このTwitterも監視して頂いているのである。

そしてこれまでの展開である…。

あまりにも御宗門ならびに自らの指導教師をなめすぎてはいないか?今からでも遅くないから以下の御指南を何度も読み返して御住職に指導を仰ぐべきだ。これが最後の忠告である。

日淳上人「弁惑観心抄」序文

 仏法を信行するものに於て最も相戒むべきは未得謂得、未証謂証といふことである。即ち猶未だ仏法を体達せざるに体達したといひ、未だ証悟しないに証悟したといふことである。此のことは独り自ら地獄に堕つるばかりでなく、他をして邪道に入らしむる因となる。法華経の会座には五千人の増上慢比丘が席を退いて仏になりそこねてをる。

 兎角仏法を学習するに経巻典籍を究むればその奥底に達すると考へがちであるが、仏法は理論を至極とせずに実践生活の在り方を主目とするから、教説によってのみでは淵底に徹することはできない、こゝに佛法に於ては師資相承の道を重要視するのである。即ち師弟相対して信行を進めることである。此のことは真に仏道に於ける要である。然るに稍々もすれば師を立つることを知らず又軽んずる者があるが既にその事自体が仏法に逸脱し混乱を生ぜしめるものである。多く己義を構へ新義を主張する禍因は此処に起る。若し一度此の邪義の淵に堕すればまた出づることも難く、遂に獅子身虫となり終るのである。よって仏法を信行する者は必らず師弟の道を尊重し師資相承の跡を尋ね、その正しき法流を確めて清水を汲まねばならない。世上仏法の混乱今日より甚しきはなく邪義愈々熾(さか)んに行はれつゝあるが、此れ主として師資相承の重要なることについて無知であるからである。

 他は措いても今日日蓮門下と称する流類は十指を屈しても猶足らない有様であるが、此等の流類は何によって起ったのかといへば、皆人情に固執し我慢偏見によるところである。

 由来日蓮大聖人の門流に於ては、聖祖は二祖日興上人の血脈相承し玉ひて大導師たるべしと御遺命あり、三祖日目上人その跡を承継し玉ひて、相承の次第炳乎として明かに今日に至ってをる。よって此の相承を大宗として各々師弟の関係をしうすれば、自ら正統の信行に住することができるのである。然るに中間に於て我慢の徒輩は此れを省みず人情に固執して逸脱をし、その結果己義を構へ邪義に堕したのである

(以下略)

昭和二十五年一月

                     日蓮正宗布教会長
                           堀米日淳

弁惑観心抄6~8ページ

昭和49年当時は本堂が存在するのである

上記の「戒壇についての補足」において日達上人は何故「安置」をもって事の戒法の成就とし、建物を建てることを否定されたのか…。

これは物凄く単純なことである。当時は「正本堂」という広宣流布の暁には本門寺本堂となる建物が既に存在していたから「安置」だけで事の戒法の成就となる理屈である。ゆえに日達上人は「なにも、本門寺の本堂なりとはっきり書いてあるのに、本門寺本堂の上に戒壇堂を造る必要がないでしょう。」とお述べになり妙信講の主張する御遺命の戒壇建立を否定された次第である。ここで広布前に本堂だけ建てて良いのか否かという論議はこの件の本筋ではないので捨て置く。

つまりそういったことなのである。本来は「広宣流布→本門寺への改称→本門寺本堂建立→本堂への大御本尊御安置」といった流れで事の戒法は成就するべきではあるが、当時は学会の圧力があったにせよ先に本堂だけ作ってしまい現に存在するがゆえに「安置」のみで形だけは整うというのがこの御指南のいわんとしているところなのである。

しかしながら近年における日顯上人の御指南を拝せば、先に建物だけを建てるということは完全に否定され、かつ正本堂自体も撤去されて現在は本来あるべき「本堂が存在しない大石寺」へと戻されたのである。

要は昭和49年当時の「広布前に本堂だけは存在する」といった一時の特殊な環境に合わせた御指南を全てのベースとして解釈していくのは誤りである。既に日顯上人が祖道の恢復として本堂の無い大石寺に戻されたのであるから、三大秘法鈔、一期弘法抄における「戒壇」も本門寺本堂という建物の建立であると素直に拝すべきである。

以下の片隅氏の「『戒壇を建立』は御本尊様の御安置のことです」というのは現在の日蓮正宗においては全く意味の通じない代物であると述べて本日の記事は終わりにしたい。

Billy Joel – Honesty (with lyrics)

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