事の戒法としての事の戒壇と本門根源としての事の戒壇

先週とうとう波平さんに追いついてしまった…、歳が…。

サザエさんを見始めたのはタラちゃんと同じ年くらいだったのに時間というのは残酷なくらいに物凄いスピードで過ぎていくものですね。残された人生がどのくらいあるかは仏様のみぞ知るところですが、悔いの残らないように言いたいことはバンバン口にしていこうかと思ってます。

というわけで先ずは顕正会員に対して最近よく使われる「2.5大秘法」や「5大秘法」なる論法の大いなる瑕疵について論じていきたいと思います。

確認

誤解されるのは本意ではないので予め申し上げておきますが、私は日達上人や日顯上人御指南の「本門根源事の戒壇」を理解しております。ゆえに広宣流布以前であろうと以降であろうと戒壇の大御本尊様の御在所は事の戒壇であるという日蓮正宗信徒としての基本的認識を持った上での話であるとご理解いただけると幸いでございます。それでは始めたいと思います。

2つの事の戒壇

顕正会員は理解しないところですが、事の戒壇には2種類存在します。一つは広宣流布の暁に建立されるところの事の戒壇、そしてもう一つは本門根源としての事の戒壇です。

一つ目の御遺命の戒壇に関しては説明するまでも無いので省略致します。二つ目の法体に約しての事の戒壇は正本堂の誑惑を助けるために俄かに日達上人が仰せ出された己義だと顕正会員は主張しますが、それはあまりにも勉強不足です。

報恩抄文段に日寛上人が仰せの立て分けがそれにあたります。(文段469)

こういうと彼らはそこに書いてあるのは広宣流布後の御遺命の戒壇を事の戒壇といってるじゃないかと反論することでしょう。しかしながら、ここでの義理とは「根源と枝流」といった物差しでの義理なのです。すなわちここでの義理を受ける「事」は「根源」です。その根源とは戒壇の大御本尊であり、「本門の本尊の所住の処は即ち是れ義理、事の戒壇に当たるなり。」(文段542)との更なる日寛上人の御指南を合わせ拝するとき、この報恩抄文段が当に本門根源事の戒壇の御指南だと誰しも理解できるわけです。

2.5大秘法論法の問題点

2.5大秘法論法の問題点とは上記二つの事の戒壇を正確に理解していないが故の混乱にあります。

ハッキリと申し上げましょう。2.5大秘法論法は顕正会の主張のままでも論破出来てしまうのです。折伏理論書だけでコテンパンに論破されてしまいます。それを法華講員は自覚した方が良いです。

これらの論法を伝家の宝刀の如く思い込んでいる法華講員は顕正会の折伏なんて大それたことに挑戦する前に六巻抄と文段を徹底的に読み込むことから始めた方が良いです。

次回から一つずつ説明致します。

僕はもう立派な中年だけど今日の一曲はこれ…。

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コメント

  1. raiden より:

    トチロ~さん

    お久しぶりです。
    浅い教祖はよくご存じですね。

    従来宗門に於ては、一天広布の暁に事相に立てられる国立戒壇を「事の戒壇」とし、その実現こそ宗門のいのちをかけた悲願であった。だが、諸々の法相は所対によって異ると、さればいま猊下の仰せ給う「事の戒壇」とは、この広布の時の「事相」に約し給うものでなく、所住の法体の「事」に約し給うたものである。即ち、戒壇の大御本尊おわします所は何処・何方にても直に「事の戒壇」と定義せられたのである。従って、曾っての御宝蔵も、また現在の奉安殿も「事の戒壇」であり、将来正本堂にお遷り遊ばせば同じく「事の戒壇」であるとの御意であられる。
    富士第140号25.26ページ

    知っていて騙すから質が悪い

    ここに破折が詰まっているような気がします。

    法華取要抄文段
    第五 本門の戒壇を明かす
     
     凡そ本門の戒壇とは、一閻浮提の人の懺悔滅罪の処なり。いう所の「戒」とは防止を義と為す。謂く、無始の罪障を防ぎ、三業の悪を止むる故なり。
     宗祖云く「此の砌に望まん輩は無始の罪障忽に消滅し三業の悪転じて三徳を成ぜん」云云。豈非を防ぎ悪を止むるに非ずや。当に知るべし、本門の戒壇に事あり、理あり。理は謂く、義理なり。これ則ち事中の事理にして迹門の理戒に同じからず。その名に迷うこと勿れ。故にまた義の戒壇と名づけんのみ。初めに義理の戒壇とは、本門の本尊の所住の処は即ちこれ義理、事の戒壇に当るなり。経に云く「当に知るべし、この処は即ちこれ道場」とはこれなり。天台云く「仏其の中に住す、即ちこれ塔の義」等云云。故に当山は本門戒壇の霊地なり。またまた当に知るべし。広宣流布の時至れば、一閻浮提の山寺等、皆嫡々書写の本尊を安置す。その処は皆これ義理の戒壇なり。然りと雖も仍これ枝流にして、これ根源に非ず。正に本門戒壇の本尊所住の処、即ちこれ根源なり。妙楽云く「像末の四依、仏法を弘宣す。化を受け、教を禀け、須く根源を討ぬべし。若し根源に迷う則は増上して真証に濫る」等云云。今、日本国中の諸宗・諸門徒、何ぞ根源を討ねざるや。浅間し、浅間し云云。宗祖云く「根深ければ枝繁く、源遠ければ流れ長し」(取意)等云云。
     凡そこの本尊は久遠元初の自受用の当体なり。豈根深く、源遠きに非ずや。故に天台云く「本極法身は微妙深遠」等云云。
     次に正しく事の戒壇とは、秘法抄十五 三十一 に云く「王法仏法に冥じ仏法王法に合して王臣一同に本門の三秘密の法を持ちて有徳王・覚徳比丘の其の乃往を末法濁悪の未来に移さん時勅宣並に御教書を申し下して霊山浄土に似たらん最勝の地を尋ねて戒壇を建立す可き者か時を待つ可きのみ事の戒法と申すは是なり」等云云。

    いかがでしょうか?

    • トチロ~ より:

      raidenさんへ

      ご無沙汰いたしております。これは「池田会長に糺し訴う」の一節ですよね。私もこの部分を発見した時は狂喜乱舞致しました。たぶんこれを顕正会破折文書として引用したのは僕が最初だったのではないかと思います。(^^;

      それはさておき、浅井さんは全て分かってると僕も思います。

      このあと5大秘法論法に関して記事を書くつもりですが、そこに引用する予定である日寛上人の寿量演説抄の有名な御文「未だ時至らざるが故に直ちに事の戒壇これなしと雖も~」を浅井さんも折伏理論書で引用してますが(旧版123、改訂版127)、自分たちに都合の良い事相に約しての立て分けの部分で引用をやめ、その後の「現時に於ける事の戒壇」「本門根源事の戒壇」の意義を日寛上人が表現している部分を敢えてカットしているんですよね。

      浅井さんの気持ちは分からんでも無いですが、もう少し正々堂々と振舞えないものかな…。と僕は思う次第です。