5大秘法論の瑕疵について

前回は2.5大秘法論者の勘違いについて述べました。今回は5大秘法論の瑕疵について話してみたいと思います。

結局理屈は同じなんですが、2.5大秘法の方は「義の戒壇」の定義自体が皆応起塔を事とした義理、すなわち戒壇堂という建物が無くとも本尊所住の処は義理として戒壇となり三大秘法は成立するということを言っているわけで、それ以上の説明もへったくれも無い、どストレートの公式だったわけです。

で、今回ちょいと違うのは三大秘法が成り立つのは同じなんですが、論者は「5大秘法になってしまうではないか!これでは広宣流布以前に事の戒壇は無いことになってしまう!」と批判を展開しているところなんですね。この考え方の誤りを指摘するには少しばかり説明が必要になってきます。よって記事も何回かに分けてアップすることになりますので、しばしお付き合い頂けたら幸いに存じます。

で、そんな5大秘法論者に質問です。

未だ時至らざる故に直ちに事の戒壇之れ無しと雖も、既に本門の戒壇の御本尊存する上は其の住処は即戒壇なり。其の本尊に打ち向ひ戒壇の地に住して南無妙法蓮華経と唱ふる則は本門の題目なり。志有らん人は登山して拝したまへ。」(歴代法主全書 4巻 145)

との有名な日寛上人のお言葉がありますが、これはあなた方の物指しでは間違いとなってしまうのですが、それでもよろしいのでしょうか?日寛上人が間違ってないとするならばあなた方が間違いとなる…。どちらも正解であるという論が構築できているならば是非ともバカな私にご教示頂きたいものです。

たぶん50年経っても100年経ってもそれは出来ないであろうから私の話を進めることに致します。

結論

説明が長くなるので結論を先に述べておきます。

顕正会が事相に約した立て分けのみに固執して事の戒壇を広布後の御遺命の戒壇だけを指すのだと主張するのと同様に、5大秘法論者は法体の立て分けのみに固執して事相に約した事の戒壇を完全無視してしまっている…。ゆえに日達上人の「現時に於ける事の戒壇」や日顯上人の「本門根源事の戒壇」の意は叶えていても日寛上人の文底秘沈抄や依義判文抄の事相に約した事の戒壇との辻褄が合わなくなるというミスを犯してしまっています。

この考え方が極端になると「大聖人は戒壇堂という建物を立てろと言っているのではない。」とか、「御遺命は広宣流布であって、戒壇建立は御遺命ではない。」などという発想になる危険性があります。実際に最近はこのような発言をする法華講員が多数出てきました。これは全くもって大聖人の御意を踏みにじる暴論であり、浅井さんが懸念していた「日蓮正宗内から戒壇建立の御遺命が消失する危険性。」というものが現実化しつつあるということでありましょう。

これは顕正会を斬っているつもりでも結果的に顕正会の背中を後押ししている行為になります。つまり意とは逆に敵を利する行為を為してしまっているのです。その愚かさに早く気が付くべきだと思います。

それでは何が正しいのか…。

皆応起塔の事相に約した立て分けと根源と枝流との法体に約した立て分けの二つがあることを正確に頭の中で整理し、それを完全に消化したうえで腹に落とし込む、その上で未だ事相の立て分けのみに固執する片目しか開いていない顕正会員にはその道理を文証をもって慈悲深く諄々と説明してあげるということなのではないでしょうか。

そこまでの力を兼ね備えた法華講員ならば、上記の日寛上人のお言葉も、日達上人の「現時に於ける事の戒壇」も日顯上人の「本門根源事の戒壇」も、そして日相上人の三大秘法開合の御筆記も、日開上人の御戒壇説法も、全てが一切の矛盾なく全てを肯定して会通が可能であるということなのであります。本来は日蓮正宗の信徒たるもの御歴代の御法主上人のお言葉は誰一人傷つけることなく会通出来てこそ当たり前の姿なのであり、そこに矛盾が生じるならば己の解釈のどこかに瑕疵があるということでありましょう。

要は、事相に約した6大秘法は事の戒壇を広宣流布後の御遺命の戒壇と定義するがゆえ、広宣流布前は5大秘法で何ら問題はないですし、日寛上人もこの立て分けで「広布前に6大秘法が成り立たなければ邪義である」という難癖が付くとは微塵も考えなかったことと思います。後程詳しく述べますが、日寛上人は事相の立て分けを説明するときには同時に法体に約しての立て分けもお述べになっております。逆のパターンもしかりです。そのようなお考えのもとに立て分けされたからこそ上記のようなお言葉になったのでしょう。上記の赤字の部分は事相に約した立て分けであり、青字の部分は根源を尋ねることの大事…、すなわち法体に約しての立て分けの御教示だと私は拝しております。この二つの立て分けをしっかりとバランスよく理解していくことが日蓮正宗信徒の務めなのだと思います。

おまけ

本日Twitterにてタイミングよくというか何というか、1人の顕正会員さんが絡んでこられました。彼女との会話の中で「不敬の御開扉」なるマニュアル通りの攻撃がありましたので、上記の日寛上人のお言葉をもって斬り捨てました。

このお言葉は顕正会の教科書でもある「折伏理論書」にも引用されていたものです。ゆえに私はちょくちょく活用させて頂くのですが、5大秘法論者の方々は赤字部分が自身の論と相いれないために破折には絶対に引用できないお言葉になってしまっていると思います。それではあまりにも残念なことです。今一度日寛上人の戒壇の立て分けを思索しなおすことをお勧めしたく思います。以下が先ほどTwitterにてやり取りした会話です。ご参考まで…。

もう少し書きたかったのですが、結論だけで疲れてしまったので、つづきは次回に…。次回は日寛上人の御指南を今一度確認していきたいと思ってます。

本日の1曲はこちら

"Let It Be" – The Beatles 和訳

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