「戒法」と「戒壇」、顕正会の皆さんはこの違いについて説明できるでしょうか?
前回お話しさせて頂いた内容と今回お話しする「戒法と戒壇の意味」が分かってくると、御遺命の戒壇に関する意義も一段深く理解出来得るものかと思います。少しばかり各々が心静めて考える時間は必要ですが、是非ともこの機会に勉強して頂くとよろしいかと思います。
同義語的な側面
日淳上人全集の「日蓮大聖人の教義」には以下のようにあります。
扨て以上の如くでありまして一般仏教に於ては戒壇と戒法とは別であります。然るに日蓮大聖人の仏法に於ては此れは一つでありまして畢竟戒壇といふことになるのであります。
日淳上人全集 1026
この講義を拝しても分かりますように大聖人の仏法においては「戒壇」と「戒法」は同義語のように使われます。実際に六巻抄においても以下のように日寛上人は仰せになっております。
問う、若し爾らば三大秘法開合の相如何。
六巻抄 82 (依義判文抄)
答う、実には是れ一大秘法なり。一大秘法とは即ち本門の本尊なり、此の本尊所住の処を名づけて本門の戒壇と為し、此の本尊を信じて妙法を唱うるを名づけて本門の題目と為すなり。故に分かちて三大秘法と為すなり。
前回申し上げたように神力品や法師品において「本尊所住の処は義の戒壇」と説かれているわけでありますから、上記のように広宣流布以前で御遺命の戒壇建立が為されていなくても戒壇の大御本尊様がおわしますところは「戒壇」と呼ばれているのですね。このように御本尊安置の堂宇そのものを「戒壇」と呼称する狭義的解釈だけではなく、「受持即持戒」の上から行者の修行(戒法)の場も「戒壇」とする広義的解釈が日蓮正宗には存在します。これは依義判文抄における以下の文
故に知んぬ、本門の題目修行の処、本門の本尊所住の処、並びに義は本門の戒壇に当たるなり。故に宗祖の云わく「霊鷲山とは御本尊並びに南無妙法蓮華経と唱え奉る者の住処を説くなり」云云
六巻抄 104
によってもハッキリと示されております。しかしながら、「戒壇」と「戒法」は全く同じものなのかと申せば、厳密に見ていくならばその言葉の指し示す物は違うのです。その点を正確に認識していかなければ「戒壇」を軽んじ、結果として大聖人の御遺命を否定するものとなり下がってしまうのです。
「戒壇」と「戒法」の関係
それでは「戒壇」と「戒法」の関係とは…?
この点も日淳上人は御講義の中で明らかにされております。
日蓮大聖人は三大秘法口訣に於て次の如く仰せられてをります。
本門寿量の大戒
虚空不動戒
名無作円戒
名本門寿量大戒壇
即ち本門寿量の大戒を大戒壇と名づくと仰せられるのであります。然らば何故かように相成りますかと申すに、大聖人の仏法におかせられては本門の大本尊を受持し奉ることが大戒でありますから此れを御本尊の安置の上からは戒檀になるのであります。衆生が受持し奉る方は本円戒、三大秘法の御本尊の方からは戒壇であります。而して此れは受持と受持されるの関係でありまして一つであります。それ故に三大秘法鈔に於かれて戒壇建立をお指し遊ばされて「事の戒法と申すは之れなり」と仰せられたのであります。
日淳上人全集 1026~1027
日蓮大聖人の本門の本円戒は御本尊を受持し題目を口唱することでありますから、此戒法は御本尊を安置し奉る場所を必須条件と致します。従つて戒壇といふことになるのであります。前述の如く通途には戒法と戒壇とは別でありますが、大聖人の仏法に於ては一つでありまして帰するところは戒壇であります。故に戒定慧の三大秘法に於て戒壇と仰せられ玉ふのであります
日淳上人全集 487
抑も戒壇とは本尊所在の処を名付け奉るので、行者が本尊を受持すれば必らず戒壇を要するのであつて、その戒壇あるところ必らず戒法があるのである。それ故に戒壇と戒法とは同義になるのである。然るに蓮祖は国立戒壇をもつて本願とせられ、此れを事の戒壇と称せられた。その戒壇に安置し奉つて一閻浮提一同に有智無智をきらはず南無妙法蓮華経と帰命し奉るべき御本尊が戒壇の御本尊である。
日淳上人全集 1211
これらのお言葉を拝するならば、広義的な解釈では「戒法」も「戒壇」も同義語として扱われますが、狭義的な解釈においては「受持する行者の側から見れば『戒法』となり、受持される御本尊の側から見れば『御本尊安置の堂宇たる戒壇』となる。」と理解できます。そのあたりをしっかり認識できると、「戒壇」の語と「戒法」の語が同時に併記されている三大秘法抄ならびに一期弘法付嘱書における御遺命の戒壇の御文も正確に捉えることが出来るのではないでしょうか。
本日はここまでにしておきたいと思います。
なお、本日引用させて頂いた六巻抄以外の日淳上人のお言葉は櫻川忠さんのサイトにも前後の文も含めてアップされております。全体を通して拝読したい方は是非とも上記リンクを辿って勉強されてみてください。