浅井昭衞氏の葬儀も無事に終えられたようですね、なによりでございます。
我々が一番気になるのはやはり成仏の相でしょうが、こればかりは実際にこの目で拝したわけではありませんので、先方様の自己申告をそのまま受け止めるしかないかと思います。
ただ、あるSNSにて「浅井先生の臨終の相は、お若い頃の浅井先生が豪快に笑っているようなお顔で色白く髪も艶やかだった」との証言がありました。私もこれまで臨終の相は何度か拝見しておりますが、さすがにこのような表情はある一定の亡くなり方をされた一例しか見たことがありません。
当然のことながら疑問に思ったもので菩提寺の御住職様にお尋ねしたところ、妙法尼御前御返事の一節
法華経に云はく「如是相乃至本末究竟等」云云。大論に云はく「臨終の時色黒き者は地獄に堕つ」等云云。守護経に云はく「地獄に堕つるに十五の相、餓鬼に八種の相、畜生に五種の相」等云云。天台大師の摩訶止観に云はく「身の黒色は地獄の陰を譬ふ」等云云。
御書 1482㌻
を引かれ、この御金言に各人が向き合い考えてみることが大事なのではないかとのご指導を頂きました。
臨終の相はさておき、この度の浅井昭衞氏の葬儀に当たって日蓮正宗の教義の上からハッキリと申し上げられることが一つだけあります。
おそらく今後の顕正会の総幹部会等で連呼されるであろう「大聖人様がお迎えに来た。」です。昨今の顕正新聞紙上でもこの言葉は多用されておりますが、はたして誰でも彼でも大聖人様はお迎えに来られるのであろうか…。
実はこれには明確な条件があるのです。本日はそれに関してお話ししていきたいと思います。
導師は大聖人の御名代
葬儀には、所属寺院より僧侶を導師としてお迎えします。
大聖人は『上野殿御返事』に、
「とにかくに法華経に身をまかせ信ぜさせ給へ(中略)御臨終のきざみ、生死の中間に日蓮かならずむかいにまいり候べし」(御書1361㌻)
とご教示されています。この御文について、第五十九世日亨上人は、大聖人の御弟子である僧侶が御名代として葬儀の導師を勤められることが、大聖人が迎えにきてくださる意義に当たることを御指南されています。
私達は、導師を大聖人の御名代として拝してお迎えすることが肝要です。
信心の原点 下巻 99㌻
上記は「法華講員の基礎知識」との副題がついている「信心の原点」という宗務院編集の書籍からの抜粋です。うちのお寺の信徒さんである「かりぶさん」から教えて頂きました。
顕正会員さんは臨終を迎えれば誰にも彼にも大聖人様がお迎えに来ると思われているのでしょうが、実はそれには条件があり日蓮正宗の御僧侶が導師を勤めることによってそれが叶うのであると日亨上人が御指南遊ばされているのです。
「顕正会と日蓮正宗の相違点は戒壇論のみであるはず、さればそれ以外の化儀や教義は日蓮正宗と同じでなければおかしい。」と法華講員さんがよく言われますが、当にその通りであり、顕正会員さん達もこの日亨上人の御指南に従って物事を判じていかなくてはいけないのです。
はたして今回の浅井昭衛氏の導師はどなただったのでしょうか…。胸に手を当ててお考え頂ければ幸いです。
御僧侶による回向の宗教的体験
葬儀に於て御僧侶の為される役目とは、御本尊の妙力・功徳力をお取次ぎして諸精霊に対して回向し届かせることであると私は御住職様から教えて頂きました。このことは日蓮正宗の信徒さんであれば、少なからず体験を通して実感していることかと思います。ここに報恩坊の信徒さんの体験を二つほど紹介させて頂きます。
かりぶさんのお母さんの場合
かりぶさんは元顕正会員でしたが、ここ数年は戦列からは離れておりました。
ただ長年ネット等で元顕正会の法華講員さん達の発信を読んでおり、心の中ではいずれ顕正会を辞めて日蓮正宗に帰依しようと考えておりました。そんな矢先にお母様がお亡くなりになってしまい、取り急ぎ顕正会の組織の知人たちが駆けつけてくれましたが、どうしてもお母様が成仏されているようには実感できず思い余って私に連絡してきました。
早速私はかりぶさんご本人とお会いし、お母様の為にも一日も早くお寺に出向き御住職様にお母様の供養をして貰うことをお勧めし、数日後には報恩坊の本堂にてお母様の法要を執り行うことが出来ました。
読経が始まりしばらくすると御宝前の方から「こっちだよ、こっちにおいで。」という声なき声が聴こえてきたそうです。そのうちにそれ迄真っ直ぐに立ち上ってた御焼香の煙がくるくると螺旋を描いて昇っていくようになり、それが上方で大きな塊となりました。読経が終わろうとするその瞬間その煙の塊が御塔婆に飛び込むように吸い込まれ、それまでの身体の重さもなくなり、「大聖人様が助けに来て下さったな。」と理屈抜きに実感されたそうです。
その後は49日の法要、一周忌、三回忌と正しい方法でお母様の追善供養を為され御本人もお母様も安穏の日々を送られております。
その時の心情等の詳しい話はご本人であるかりぶさんが今後書かれると思いますので、それをお待ちください。
愛猫ウメちゃんの場合
私も飼い猫であるウメちゃんの臨終に伴い不可思議な体験を致しました。当時既に日蓮正宗の信徒でありましたから家に仏壇もありますし、葬儀の依頼を御住職様にお願いすることも出来たのですが…、さすがに飼い猫のお葬式をお願いすることまでは気が引けて初七日のお塔婆から49日のお塔婆までを毎週建てさせて頂き、それをもってウメちゃんを送り出したいと考え実行致しました。
その初七日の回向時に私もかりぶさんと同じ「旅だったな…。」という実感を感じたものでした。その時の状況は以下のブログ記事にまとめてあります。
今でも当時のことを思い出すと胸に込み上げてくるものがあって筆が進まないので、以下のブログ記事に飛んで読んでみてください。
「大聖人様がお迎えに来る」とは、このように資格のある導師が導いてこそ得られる結果であり、資格の無い者が恰好だけを真似て儀式をしても亡くなられた方は道に迷うだけなのです…。この点を是非とも皆様方にはお考えになって頂きたく存じます。
資格の無い者が導師を務めると…
以下は「創価学会による『友人葬』は間違いです!」という日蓮正宗のリーフレットに書いてある文章です。この学会を顕正会に、友人葬を儀礼室の葬儀に置き換えて読んでみると顕正会での葬儀が如何に恐いものであるかが理解できるかと思います。
Q 顕正会幹部に葬儀の導師を任せるとどうなるのですか?
A 『当家引導雑雑記』には、
「仰せに云く不知案内にして亡霊の引導は悪道に堕すべし、是は法然・弘法に超え過ぎたる罪障なり」
とあります。つまり、葬儀の導師としての正しい心得も知らず、ただお経が読めるというだけで、顕正会幹部が導師を行う儀礼室の葬儀は、個人を悪道に堕とし苦しめることになります。
また、導師を務めた顕正会幹部(儀礼室員)は、念仏の法然や真言の弘法よりも大きな罪障を積むことになる、ということです。
こうした顕正会の儀礼室の葬儀で送ったとしても、故人が喜ぶはずはありません。
リーフレット 「友人葬」は間違いです (一部言葉の差し替え有り)
今回の浅井昭衛さんの葬儀ではY田さんが導師をされたと耳にしておりますが、御自身の為にもこのようなことは以後は避けられた方が宜しいのではないかと感じます…。
これから一般の会員さん達の御焼香があると聞いておりますが、一般の会員さん達もこれらの日蓮正宗の法義を学んだうえで、御自身の葬儀や身内の葬儀をどうするのかを、この機会にお考えになってはいかがでしょうか。
コメント
こんばんは。
浅井さんの葬儀の導師、Y田理事が務めたのですか。
ある意味、意外でしたね。
私は顕正会の活動内容や理念を支持している正信会の一派、「冨士大石寺正信会」の僧侶がやってきて、葬儀の真似事でもやるのかと思っていましたが、さすがに僧侶不要論の浅井家では、例え顕正会支持派でも僧侶は要らなかったわけですね。
因みに今後、私は顕正会内部では、「大聖人様がお迎えに来てくださる」のではなく、「浅井先生が迎えに来てくださる」という話が蔓延するような気がします。
何しろ、「先生の不肖の弟子たる我々(一般会員)が、先生と同じように大聖人様に迎えに来て下さると考えるなど、おこがましいにも程がある」なんて本気で指導してもおかしくないような団体ですから。
こうすることによって、引き続き、「(浅井先生にお迎えに来て頂く為にも)無二の師匠、浅井先生に断固としてお応えして参る決意であります」が成り立つというわけですね。
たしかにその路線はあり得ますね…。
昭衞さんを神格化することによって、御僧侶という存在を排除して顕正会の存在を正当化できるかと思います。
ただ、それをやってしまうと今度は御書や歴代御法主上人の御指南と整合性がつかなくなってしまいます。結局は論理に破綻して滅んでしまう結果になると思いますよ。
返信ありがとうございます。
御書の方は、「御書を正しく拝せるのは浅井先生唯お一人。よって今後、顕正会では御書による指導は行わない」ということになりそうです。
良くて、顕正会でも出している六巻抄を使うくらいでしょうか。
恐らく今、顕正会では、「多少のケガは仕方なくも、なるべくケガの少ない方針を執りたい」と思っているでしょうから、それが何なのかってことですね。
私は、「浅井会長の仏格化」「御書不使用」はあると思っております。