論点ずらしは顕正会の習気か?

先日Twitterにて法華講員の方と論争になってしまった…。

現役顕正会員さんのツイートに対して、元顕正会員の櫻川忠さんが御遺命の戒壇建立の「国家意思の表明」に関しては国主たる天皇陛下の意志と共に民の意志も必要条件になると返答致しました。これはこれで私なんかは「うん、そうだよな。」って納得していたんですが、そこに現役法華講員さんが「本門戒壇は建造物ではありません。(中略)建造物であれば『事の戒法』に関して明確にするべきだと思います。」と横やりを入れてきたわけです。

まぁ、当の本人である櫻川さんは「何を言ってるんだこの人は?」ってことで様子を見ていたのでしょうが、御遺命の戒壇建立を軽視する「正本堂問題の後遺症」に20年間頭を悩めていた私にとっては看過できない問題であり、事の戒法に関する日顯上人の御指南をリプライしたわけですが…。

それがとんでもない泥沼にはまってしまうことになりました。

まぁ、いずれはこれらの正本堂問題の後遺症は解決しなければいけないわけですから、これを良い機会と受け止めて前向きに取り組んでいきたいと思っております。

有難いことにお山の大先輩である中道さんや同じ顕正会出身の菊水さん、そして10年以上お世話になっている櫻川さんといった諸先輩方も同じ気持ちのようですから、私のような小僧は皆様の足を引っ張らないことだけに集中していこうかと思って居ります。

論点すり替え

上記の現役法華講員のリプを見てもらえば分かると思いますが、「本門戒壇は建造物ではない。」ということが彼の一番最初の主張でありました。これは大いなる誤りであり、三大秘法抄ならびに一期弘法抄に仰せの戒壇は本門寺の戒壇堂であり、それは建物です。それを広宣流布した後にしかるべき条件が具備して改めて建立するところに御遺命の戒壇の意義が存するのであり、この赤字で示した「しかるべき条件」を櫻川さん達は話していたわけです。

それをガン無視してこのように横やりを彼は入れてきたわけですが、彼の主張はあくまでも広宣流布以前の本門戒壇、つまり法体に約しての事の戒壇に参詣する意義を述べているにすぎず、たしかにそれは事の戒法ではあるが、「事の戒法の成就ではない。」という意味も含めて三大秘法義の日顯上人の御指南を私はお返事させて頂きました。つまり彼の言っている事の戒法とは一部分であり、全体像ではないということでございます。

まぁ、そこから「事の戒法とはなんぞや」といった論争になっていったわけですが、そもそも最初の現役顕正会員さんと櫻川さんの話はそこに論点があるわけでもありませんし、だいたいが現役法華講員さんは「本門戒壇は建造物ではない。」と言い切っているわけですから、「事の戒法」がうんたらかんたらと述べるのは全く持って話にならんわけですよ。

櫻川さんにイチャモンをつけるなら、先ずは御遺命の戒壇建立の条件としての国主の意志をどのように解釈するのかの議論をしなければなりませんし、私にイチャモンをつけるならば、「本門戒壇は建造物か否か」の議論をするべきなのです。

自分の言いたいことだけをまくしたてて論点をすり替えながら、こちらの質問には一切答えないという姿は当に顕正会員の姿そのものであります。要は顕正会の習気が未だに抜けきらないのかもしれませんね。

彼に対するお返事を書くにあたって彼の立ち位置を明確にするため2~3の質問を投げかけたのですが、未だにお返事を頂けていないので、勝手に私の言いたいことを述べさせていただきました。

お返事を頂き次第もっと突っ込んだ内容を書いていきたいと思って居ります。

今日の一曲はこちら。

画像はいただけないのですが、歌詞が素晴らしいのでいつかは使ってみたかったんですよね…。画面下の「字幕」をクリックすると歌詞も出ますよ。

以前に講頭職をおろされた時のアンチの方々の主張の一つが「講頭としての品が無い!」ってことだったらしいんですが、こればっかりは治らないですよね…。

まぁ、講頭職なんてものは罪障が重い奴がなるもんだという先輩の言葉もありますから、これはこれで良かったんでしょうね…。

DJ OZMA / DRINKIN'BOYS

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コメント

  1. 西山貴文 より:

    西山ですが何か論争の争点ずらしをしましたでしょうか。

    国家意志と事の戒壇建立の話が変遷して事の戒壇とは、事の戒法とはの定義的な話になっておりますが、要は国立戒壇建立の是非の話で、

    事の戒壇建立が事の戒法。

    であれば国家受持はあり得ることで、其の事の戒壇を国立戒壇と呼ぶのだと考えます。

    国立戒壇論に成っていると思われます。
    顕正会員の習気等の疑念は払拭していただきたい。

    • トチロ~ より:

      西山様

      コメントありがとうございます。

      これは西山さんに宛てた話では無いので誤解されないでくださいね。

      なお御遺命の戒壇建立をもって事の戒法の成就であると日顯上人も仰せでありましたし、私もそのように認識しております。

      国家スケールでの戒壇建立ということも日顯上人の御指南にあります。

      要は国家という非情には戒壇建立の意志は存在しえないのですから、国立戒壇という表現は不適格だということを日顯上人は仰せなのです。

      それ以外は概ね顕正会の主張というのは御宗門の戒壇義と変わりは無いのですよ。また気が向いたらコメント頂けると嬉しいです。

  2. raiden より:

    トチロ~様

    こんばんは。
    阿保馬鹿雑魚信徒のraidenです。

    仲よく論議が出来ないのは悲しいですね。
    せっかくご戒壇様の足元に縋ることが出来たのに。
    ディスカッションはなんでも大事です。

    raidenはこれしか言えないのです。
    この信心はご戒壇様と御法主上人猊下を信仰する信心なんだと。
    この原点からずれていくとんどんベクトルがずれていく。

    時々先輩や御住職にお聞きしないといけないと思います。

    素直に御本尊様に皆様が向かっていけますように。

    • トチロ~ より:

      ありがとうございます。

      私も大概のことには目をつぶります。

      しかしながら、御法主上人猊下とて踏み込むことが許されない化法を勝手な解釈で世の中に弘められるのは正宗信徒として見逃すわけにはいかないのです。

      どうか心中をお察し頂けたら幸いです。

  3. 片隅 より:

    トチローさん、こんばんは。
    指導会がありましたので、遅くなりました。

    Twitterに返事を入れてますので御一読下さい。

    尚、ブログにコメントするのは、これで最後とします。
    これ以上は、かなり突っ込んだ話になりますので、勝敗を付ける事になります。

    それをお望みでしたらTwitterでお願いいたします。

    • トチロ~ より:

      勝敗はつけますよ。

      その覚悟が無ければここまで致しません。

      なお教義の突っ込んだ話をTwitterの限られた文字数で表現するのは無理ではないでしょうか。

      故に私の主張はこのブログにて発信いたします。

  4. 菊水護国 より:

    戒壇については、これからでしょうから、見ていく予定です。
    ところで、講頭云々ですが、講頭さんの大半が品なんて考えではおられませんよ。
    むしろ、お世話役に徹して平身低頭して、信徒さん講員さんに接しておられます。
    私どもの先代も当代も講頭さんは荒っぽい部分がありながら、人としては真面目で信心に真っ直ぐな方ばかり。

    まさに「粗にして野だが、卑に非ず」のような方ばかりでした。

    • トチロ~ より:

      そうですよね、恰好なんて気にしていたら何もできませんものね…。

      御住職と講員さんの間に挟まれて常にストレスに苛まれて…、ドMでなくては務まらない役目ですよね…。

      いつしか私も「携帯を投げる人」になっていて、日蓮正宗に入ってきてからはGショックシリーズの携帯しか持っていません。(笑)